その昔、アイドルと言えば松田聖子とか中森明菜、小泉今日子、男性なら田原俊彦、近藤真彦…と言ったように「ピン」であることが当たり前だった。
それがいつからかアイドルと言えば、アイドル「グループ」であることが当たり前になった。
そのアイドルグループの歌を聞くと不思議に思うことがある。
グループの構成員は多いと10人以上いることもあるのに、歌声は一つに聞こえることだ。
もしかしたら、かつてのSMAPの中居くんのように、なじまない声は勝手にマイクの音量を下げられていることもあるのかもしれないが、それにしても、数人で歌う歌声が一人の声のように聞こえるのは不思議だなと前から思っていた。
ここで言いたいのは、アイドルの変遷でもないし、アイドルの進化論でもない。
周りくどい出だしで申し訳ないが、グループで歌う歌声が一つに聞こえるような現象が起きているのではないかと感じるのだ。
SNSのことだ。
ネットでは無数の人が自分の意見を主張している。その声一つ一つは個人のものに間違いはないのだけど、SNSというプラットフォームにまとまると、まるで一人の声のようになってしまう。
一人一人の声を飲み込み、それを成長の餌にして巨人が生まれる。そしてその巨人は自分を生んだはずの個人の存在を逆に飲み込んでしまう。
あたかもフランケンシュタインが、生みの親である博士を殺してしまったように。
いつしかボク達の生活はSNSに支配されている。
つい最近、ボクはTwitterを始めた。それで分かったことは、Twitterでは、Twitterをやっている人に「ウケる」発言内容があるということだ。
周りに「いいね」をもらえれば嬉しい。その喜びを得るために、知らず知らずのうちに自分の発言内容が変わってしまう。
そのような体験を繰り返していけば、人格さえSNSに好かれるものへと変わってしまうのではないだろうか?
SNSという巨人は逸脱を許さない、不寛容な存在だ。
目には見えない権力だ。
そしてSNSが支配する世の中で行われるのは「私刑」だ。
毎日のように死刑は実行されている。ボク達はいつしかキャンプファイヤーの火を囲むようにそれを楽しんで眺めているのだ。
外は強風が吹いている。今日は外出もできない。おかげで、少しマジメなブログを書いてしまいました。