浅間山が美しい。
冷たい冬の空の下、午後の日差しを浴びて目の前にその稜線を広げている。
山肌の雪の白さが眩しく、山頂はうっすら雲を被っている。
長野県の実家の家のすぐ裏に見える景色だ。
東京に出てくるまで、この山のことは好きではなかった。
浅間山は高校の校歌にも歌われていたし、多くの画家の題材になったり、地域の人に愛されていることは知っていたが、僕はこの山のことは好きではなかった。
視界を遮って閉鎖的に感じたし、何よりもこの山のせいで、町は坂道だらけである。
今のように電動アシスト自転車もなかった高校生の僕にとって、この山の存在は移動の自由を制限する存在でしかなかったのだ。
ただこうして東京に居を移し、本当に久しぶりに冬の浅間山を見たわけだけど、あらためて見ると、その美しさ、荘厳さ、絶対的な存在感に心を奪われる。
本当は写真を撮っている場合ではなかったのだが、思わずスマホで写真を1枚だけ撮った。
父親が亡くなったという連絡を受けたのは、クリスマスの夜、12月25日のことだ。
僕はすっかり油断していた。
というのも、1週間ほど前に病院から電話があり、状態は安定していてリハビリもしていると説明を受けていたし、だからこそ25日に病院を転院することになっていた。
だから見知らぬ長野県の市外局番から電話がかかってきた時も、転院手続きが無事終了したという事務報告だとてっきり思い込んでいた。
しかしその電話は、父の死を知らせるものだった。19時に看護師が見回った時は何の異常もなかったが、その30分後突如として心肺停止状態になったのだと説明を受けた。
〜
父親と僕は、分かり合えた親子ではなかった。父親とはことあるごとに衝突を繰り返してきた。
教員だった父親の生き方は僕には窮屈で息が詰まるようなものだと感じていたし、父親は自分とは全く感覚が異なる息子のことが理解できなかったのだろう。
父親は強い人だった。
意志の強い人、忍耐強い人、我慢強い人、愛情が深くて強い人、生命力が強い人、バイタリティがあって、情熱的で、エネルギッシュな人。
87歳だった。
87歳というと、男性の平均寿命からすれば十分に長生きをしたとも言えるかもしれない。
だけど、父親は強い人だった。見舞いに行った僕の手を握りしめたその手は、その痩せた体からは想像できないほどに力強く、厚くて大きな手だった。
だから僕は、階段から落ちて首を骨折して、それがきっかけになって胃ろうを作るようになり口からは食事が取れないようになっても、そのうちまた口から食事が取れるようになって、今は無理でもそのうち退院することになって、この先少なくても5年程度は、場合によっては10年以上長生きをして、また僕にとっては厄介な父親として生きていくのだとてっきり思い込んでいた。
葬儀までの数日、夜中にふと目が覚めてしまい、それから眠れないという状態が続いた。
そんなとき、田舎の夜の暗がりの中で父親のことをあれこれと考え続けた。
思い出すのは、父親との衝突、周囲を巻き込んだ大げんか、理不尽とも思える抑圧…
僕にとっては、父親は欠点の多い人間のように思えた。
〜
世の中には面白いことをいう人がいて、赤ちゃんは生まれてくる時、両親を選んで生まれてくるのだという。
雲の上から下界を覗いて、あの両親の元に生まれようと考えて生まれてくるのだという。
だとしたら、僕はなぜこの父親のもとに生まれてきたのか。
夜中に目が覚めて暗闇で思い返す父親の短所は、実はそのまま自分の短所でもある。その一方、父親のもつ強さを残念ながら僕は持ち合わせていないように思う。
だとしたら、僕はなぜこの父親のもとに生まれてきたのか。
ぐるぐると考え、ふと考えたのは、乗り越えるべき壁として父親を選んだのではないかという考えだった。
父親のせいで苦労もしたし、遠回りもしたように思える。だけど、それは僕にとって必要な壁だったのかもしれない。
ただ、その壁は乗り越える前に消えてしまった。
今の僕には、僕にとって父親がどんな存在だったのか明確に答えることはできない。
ただ数年後、父親が完全に思い出となった時、もう一度父親の生きた姿を思い返す時、目の前に見た冬の浅間山のように、その美しさや荘厳さにあらためて気付かされるのかもしれない。